「桜という被写体の表現について」4/8開室しました
日本人でカメラを持っている人なら「撮影しない人」の方が少ないのではないだろうか?と思われる桜。
桜について「好き」という人もいますし「好きじゃない」という人もいます。
今回のテーマは「桜という被写体の表現について」が議題でした。
最初にディスカッションをして、今までに撮影してきた桜の写真を一人づつプレゼンします。
桜という被写体を語るとき、どうしたって「個人」になるな、と桐島は思います。
ただの花ではなく、季節の象徴だったり、思い出だったり、記憶だったり。 プラスの感情でなくとも「無関心」ではいられない「魅力」があると思いました。
惹きつけられる力、ベクトルは違えどもそれぞれの心に作用するものがあると感じます。
桐島は桜自体は怖いと感じていてあまり好きではないのは、「春」が好きではないから、だと思っています。冬が好きなので終わりを告げるソワソワ感や、パステルカラーな感じが怖いのです。
もっと無彩色の無音のこの空間に居たいのになぁ…と思いつつ「春」に取り残された感じになって「桜」を茫然と見つめる事が多かったので過去の写真は「桜色」ではないことが多いです。
みなさんのお話を聞きながら感じるのはやっぱり「ただの花」ではないということ。
それぞれに立ち位置があり、思いがあり、時間があります。
それはどんな被写体でも同じ。
作曲家が「新しいピアノを手に入れたので曲を作ってみました」という理由で歴史に残る名曲を作った人はいませんが、思いや記憶を込めて曲を作った人はたくさんいます。
何かを生み出すとき、それは「表現」になるのだと、感じました。
雨上がりの撮影時間はとても贅沢で、ほぼ貸切状態。
地面につく大きな桜の枝振りと、鳥たちの声だけが響く空間はこの世のものではないような気がして。雨あがりの匂いも気持ちよかったです。
何かについて考えるとき、表現しようと思うとき。
自分の立ち位置や、被写体の占める場所をもう一度振り返る。
そんな行為を自然としてくれるのが桜なのかもしれません。
参加してくださったみなさま、ありがとうございました。